大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑の1人でもある。
幕末後、西南戦争前に西郷が参加していることが分かると、西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いたという)。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。
明治11年(1878年)に暗殺される日の朝、福島県令・山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」と将来の構想を語ったという。
鹿児島では「西郷どんの敵」とされ、彫刻家の中村晋也が制作した銅像が建てられたのも昭和54年(1979年)、西南戦争の百年後である。
またこの銅像の銘板をご覧いただけるとわかりますが、「大久保利通像」の「通」の字が少しずれているのがわかります。これは鹿児島県民の大久保利通に対する恨みがこもっているのです。「大久保利通は西郷さんを殺した」ということで人の「道(みち)」から外れた人間だということで「通(みち)」をわざとズラしているのです。
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