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6代目 三遊亭円楽(黒円楽) Mystery Cache

Hidden : 2/1/2025
Difficulty:
4 out of 5
Terrain:
2 out of 5

Size: Size:   micro (micro)

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Geocache Description:


 

公開座標は6代目三遊亭圓楽師匠のお墓です。
この場所にキャッシュはありません。

 

 

 

六代目 三遊亭 円楽(さんゆうてい えんらく)
1950年2月8日 - 2022年9月30日は、日本の落語家、俳優。

出囃子は『元禄花見踊』。五代目圓楽一門会所属で、幹事長を務めた。2017年6月27日から、客員として協会に加入し、2つの噺家団体で活動していた。長男は落語家・声優の会一太郎(落語家としての名称は三遊亭 一太郎)。また、前名である三遊亭 楽太郎(さんゆうてい らくたろう)の名前でも知られている。

 

 経歴

東京都墨田区出身。墨田区立両国中学校、東京都立深川高等学校、青山学院大学法学部卒業。

1970年4月の青山学院大学在学中、五代目三遊亭圓楽の鞄持ちのアルバイトに志願。
付き人を経てスカウトされ入門し、大師匠六代目三遊亭圓生の命名により「楽太郎」を名乗る。
圓楽の「楽」に長男を意味する「太郎」で楽太郎となった。

1972年3月に青山学院大学法学部卒業。

1976年7月、二ツ目昇進。

1977年8月28日、六代目三遊亭圓窓の後任として『笑点』レギュラーとなる。
五代目圓楽の降板で欠員が出ていたため、5代目が着ていた薄紫の色紋付を着用することとなった。

1978年、落語協会分裂騒動で師匠と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会所属となる。

1979年1月、放送演芸大賞最優秀ホープ賞受賞。

1981年1月、若手落語家努力賞受賞。3月に真打昇進。

2007年より、所属するオフィスの協力により落語まつりのプロデュースを手がけいる。

2008年8月、師匠である5代目圓楽から楽太郎が還暦となる60歳、真打昇進30年目となる2010年2月に6代目圓楽を襲名することが発表されたが、襲名直前の2009年10月29日、5代目圓楽が肺がんで死去した。
当日、既に福岡入りしていた楽太郎は、師匠の最期には立ち会えなかった。
この時期に楽太郎も人間ドックで大腸ポリープがみつかり、検査したところ大腸がんと判明した。
手術で全摘して10日ほどで退院したが、夏休み中で仕事に影響がなかったことからメディアには公表しなかった。

2009年9月3日に、長男の一太郎を伴って5代目圓楽の自宅へ自分の弟子にしたと挨拶に訪問したのが最後の対面となった。
2009年9月3日は大師匠である6代目三遊亭圓生の誕生日と命日でもあり、墓参りも行った。

2010年2月28日放送の『笑点』において「六代目圓楽襲名披露口上」を行い、翌3月1日付で正式に6代目圓楽を襲名した。出囃子も楽太郎時代の『花が咲き候』から、先代の出囃子である『元禄花見踊』を引き継いで変更している。3月2日には、襲名披露パーティーと記者会見を国ホテルにて開催し、襲名披露公演は3月3日の高知県のホールを皮切りに12月まで全国80か所以上で行われ、3月15日には新橋、2010年3月下席から4月中席まで定席興行も開催された。寄席定席での披露興行は、楽太郎の要望に応じた落語芸術協会会長の桂歌丸の協力により実現し、当人の定席への出演は32年ぶりとなった。また5月31日には、横浜市の演芸場で行われた歌丸一門会でのトリを務めた。

襲名と同時に、5代目が担当していたお線香のCMナレーションも継承した。

前述のとおり名跡の正式表記は旧字体を用いた「圓楽」であるが、師匠との区別を図る意味合いから独演会や『笑点』などの落語家としての活動では一貫して常用漢字表記の「三遊亭円楽」を用いた。

2017年6月27日に開かれた落語芸術協会の総会において客員での加入が認められ、同日より五代目圓楽一門会と並行して落語芸術協会の落語家としても活動する。
これにより、落語協会脱退以来39年ぶりに定席興行に出演できるようになった。
この加入は単身での加入であり、6代目円楽門下の弟子は引き続き五代目圓楽一門会のみの所属となる。

2018年9月28日、自身の所属する事務所の公式ホームページを通じて初期の肺がんであることを公表。
翌月の5日に手術を行い、12日に復帰した。

2019年5月24日から26日にかけて札幌市内の三か所のホールを会場に落語まつりをプロヂュースし、28名の落語家が出演した。

2019年7月18日、検査で脳腫瘍が見つかり、19日、検査と治療のため3週間ほど入院することを発表した。

2019年8月11日、病院からの一時外出という形で8月中席に出演、トリを務め、高座復帰を果たす。

2021年6月13日、2020年に伊集院のラジオ番組にゲスト出演した際に円楽が開催を持ちかけたことがきっかけとなり、有楽町において、弟子の伊集院光と二人会を開催(昼夜2公演)。
伊集院としては30年ぶりの高座復帰となり、昼公演では実子の一太郎が6年ぶりに高座に立ち、夜公演では伊集院がかつて名乗っていた高座名を引き継いだ三遊亭楽大が出演した。

2022年1月25日、脳梗塞のため入院したことを所属事務所が26日に発表。

2022年8月11日、8月中席(落語芸術協会主催)で高座復帰し『猫の皿』を披露。

2022年8月20日、8月中席最終日の高座(演目:『目薬』)が最後の姿となった。

2022年9月30日 肺がんのため72歳で東京都内の病院で死去。

訃報を受けて同じ円楽一門会所属で『笑点』のメンバーであった三遊亭好楽、同じく『笑点』メンバーの三遊亭小遊三、林家たい平、歌丸の妻の椎名冨士子、かつての弟子であった伊集院光、ウルティモ・ドラゴン(浅井嘉浩)、親交のあった藤波辰爾などが自宅へ弔問に訪れている。

2022年10月4日 長男の一太郎を喪主として町屋斎場で近親者のみで密葬が行われ、荼毘に付された。
墓所は、五代目圓楽が生前、曹洞宗釈迦尊寺(群馬県前橋市)の住職との親交があったため、その関係から楽太郎時代から釈迦尊寺との繋がりがあり、釈迦尊寺に生前墓(寿陵)を建立している。2016年3月には釈迦尊寺にて得度(出家)式を行い、『楽峰圓生』(らくほうえんしょう)の僧名を賜った。
戒名は本名の「泰通」と襲名に意欲を見せていた圓生の文字が使われた「泰通圓生上座」(たいつうえんしょうじょうざ)。

2022年11月14日、釈迦尊寺で遺族と弟子により四十九日法要が営まれ、納骨された。

2022年12月2日にお別れの会が行われた。

2023年1月1日付で、移籍先が決まっていなかった師匠円楽の死去時点で二ツ目以下の弟子5名のうち、二ツ目の楽天・楽八・楽花山の3人は三遊亭小圓楽門下に、前座の楽太は三遊亭萬橘門下に移籍が決定した。
二ツ目のうち、楽㐂だけは「円楽の弟子のままでいたい」として廃業を選択した。

圓楽一門は落語定席に出演できなかったが、円楽が生前客員として所属していた事から、新宿末廣亭における圓楽一門会の出演枠は円楽の3回忌を迎えた2024年10月現在も引き続き存在し、三遊亭兼好、三遊亭王楽、三遊亭萬橘の3名を中心とした一門会所属者が出演を続けており、6代目円楽が圓楽一門会所属者の寄席定席への出演の道筋をつけた意味は大きいものとなった。


人物・逸話

自身が生業としていた落語の魅力を「日本人が考えた最高のエンターテインメント」と形容しており、「僕は落語やってくれる人、落語好きな人はみんな好き」「たったひとりで小宇宙を作って、うまくやれば喜怒哀楽の全部が落語の中にある」「もっとキザに言えば、いい時代の日本人がいた。そういう時代を忘れてるわけでしょ」「日本人の忘れ物がね、やさしさとか人情とか愛だとか友情とか、それが全部落語の中にあるわけ。だから日本人の忘れ物は落語の中に取りに行けばいい」と語っていた。

父は島根県隠岐郡西郷町(現・隠岐の島町)出身の警視庁の警察官。父への反抗心からか学生時代には学生運動にも参加していたが、「ユートピアを追うことに疲れ、そのときに落語を聞き返したところ、その中にユートピアがあることを発見し、落語に生きることにした」と語っている。

妻の留美子は1959年埼玉県生まれ。演芸に関する仕事をしていて楽太郎と知り合い、1987年に結婚。円楽の生前は表舞台に立つことはなかったが、2023年3月号の雑誌で所属事務所社長・植野佳奈との対談で「メディアに出るのは最初で最後」と思い出を語り、関係者への感謝の意を述べた。

20歳で圓楽に弟子入りし、概ね5年ごとに節目を迎えてきたため、いつしか「5年計画」で物事を進めるようになった。そのため、圓楽襲名の話が師匠からあった際も、すぐにというわけではなく、その5年ごとの節目にもあたる60歳にという意向で、6代目襲名の話を進めることになったと語っている。

高校生の頃、青山学院大学の入試に軽い気持ちで受けたら合格できたという。

しばしば、政治・社会風刺ネタを用いていた。

若手時代、瀬古利彦に顔が似ているとされており、テレビで瀬古の物真似をすることが多かった。瀬古が所属していたスパイ紙スメーカーの文字が入ったランニングシャツを着て「これは『三遊亭楽太郎は、僕です』の略字」と説明するなどのギャグを披露していたが、35歳を迎える1985年正月より「落語で勝負したい」として、瀬古の物真似を封印した。数年後、瀬古の方から「楽太郎に似ている」ことを話のネタにするという逆転現象となった。その後も長く交流があり、2010年3月の6代目円楽襲名披露パーティーにサプライズゲストとして瀬古が出演した。2022年9月に円楽が死去した際に瀬古は「ビールを呑みながら冗談を言い合える日が来るものと信じ、楽しみにしていました」「とても無念でなりません」とコメントで悼んだ。

2015年1月1日に放送された『笑点』正月特番では、女性アナウンサーとの大喜利コラボ企画で「青山頑張れ!」と母校の青山学院大学陸上部を応援し、翌日開催された箱根駅伝において、青学陸上部は完全優勝を果たした。これに2区を走った一色恭志が、感謝のツイートを上げている。

最初の弟子は、後に放送作家に転身した石田章洋(門下当時は花楽京)で、二番目はタレントに転身した伊集院光(門下当時は楽大)である。

プロレスファンとして知られる。天龍源一郎とは仲が良い。ゆでたまごが天龍の試合観戦中に観客とトラブルになった際に、それを仲裁したのが円楽だった。それがきっかけで、ゆでたまごは天龍同盟の飲み会に参加するようになったとのことである。天龍が相撲部屋への入門を機に中学2年生で墨田区立両国中学校に転入し、円楽と同級生となる、前述するようにウルティモ・ドラゴンが立ち上げた団体の理事長を務めたこともあった。自宅にはプロレスラーがひんぱんに出入りしていた。

日本ゲートボール連合(JGU)評議員。「おはよう!ゲートボール」に出演した経験から、ゲートボール審判員の資格を持つ。一門若手とチームを結成し、全国各地でゲートボール大会&落語会を開催。逝去直後に開催された宮城県蔵王町の円楽杯ゲートボール大会では参加者が黙とうを捧げ、弟弟子の三遊亭愛楽が参加予定だった生前の円楽からのメッセージを代読した。没後の2023年5月に公開の映画「それいけ!ゲートボールさくら組」(野田孝則監督)では、解説者役で友情出演している。

先代圓楽と三遊亭圓丈とは、落語協会脱退後に袂を分かつ状態となったため特段の交流は無かったが、2013年の圓丈の著書「落語家の通信簿」について、円楽が誤認を指摘して増刷時に修正されたのを機に意気投合し、2014年に圓丈・圓窓の一門弟子と共に圓生一門の合同落語会「三遊ゆきどけの会」が開催されることとなった。

入門当時は落語協会に在籍しており、脱退後は五代目が創設した五代目圓楽一門会に所属、のちに桂歌丸が会長を務めた落語芸術協会(客員)との二重所属となった。さらに、立川談志の元へ2万円を持って直談判しに行ったことをきっかけに、落語立川流の非落語家の著名人枠である立川流Bコースに「立川談次郎」の名で所属した。以上のことから、東京の主要落語家4団体全てに、何かしらの形で在籍歴がある唯一の噺家となっている。

談志とは円楽自身が前座の時代から交流があり、噺をもらったこともあるほか、五代目圓楽が死去した際に、談志宅を訪れ、五代目の思い出を語り合ったという。六代目襲名披露にも病をおして談志が出演している。


五代目が生前、曹洞宗釈迦尊寺(群馬県前橋市)の住職との親交があったため、その関係から6代目も前名の楽太郎時代から釈迦尊寺との繋がりがある。自身は「俺は次男なので実家の墓に入れないから」と、釈迦尊寺に生前墓(寿陵)を建立している。2016年3月には釈迦尊寺にて得度(出家)式を行い、『楽峰圓生』(らくほうえんしょう)の僧名を賜った。

1985年8月12日、笑点の企画で五代目圓楽、桂歌丸、初代林家木久蔵(現・林家木久扇)、三遊亭小遊三、林家こん平、古今亭朝次(現・七代目桂才賀)、山田隆夫と、翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りする予定だったが、予約した徳島行きの航空機が大幅に遅延し、徳島空港が悪天候のため、予約便は条件付き運行となった。そこで1つ後の日本航空123便に搭乗して、神戸から船で移動する案が浮上したが、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したため、元の徳島便に搭乗し、日本航空123便墜落事故から逃れることができた。徳島空港到着後、宿泊先のホテルへタクシーで移動中に、墜落事故を知ったという。

同期入門の噺家として春風亭小朝、立川ぜん馬らがいる。円楽の死去に際し、春風亭小朝は、雑誌2022年12月号に「追悼 三遊亭圓楽さん 楽ちゃんが僕の耳元で囁いたこと」を寄稿した。

かつてはヘビースモーカーだったが2009年に禁煙した。

1977年8月28日より『笑点』の大喜利メンバーに加入し、レギュラー出演している。『笑点』には入門直後から、5代目の付き人・裏方として関わっていた。

初めて『笑点』の「大喜利」に出たのは師匠5代目圓楽の代役であった。圓楽は師匠の6代目圓生から「あんなもの(テレビ)に出て、ロクなもんじゃない」と言われて、「冗談じゃねえ、(『笑点』を)辞めてやる!」と啖呵を切り、番組を無断欠席した。楽太郎が『笑点』収録会場の後楽園ホールに入ると、圓楽の所属事務所から楽太郎宛に電話があり、電話に出ると圓楽が「(番組に)行きたくねぇ」とのことだった。事務所から「何も知らない」と押し通せとの指示が出た。収録時間が迫っているのに圓楽が来ないため、楽屋は大騒ぎになった。楽太郎は番組スタッフから圓楽について聞かれたが、「知らない、分からない」と答えるしかなかった。もう圓楽は収録に来ないと判断したスタッフは2本撮りのうち1本目は移動手段のための欠場とし、2本目は楽太郎を圓楽の代理として出演させることにした。当時司会の三波伸介とプロデューサーから「座っているだけでいい」と言われたが、手を挙げて三波に指名され、言った答えが大いに受けて、座布団を獲得した。初出演後の電通のアンケートに視聴者から「若手をどんどん使うべきだ」という声が出て、師匠の推薦もあり、楽太郎は圓楽の後任として三笑亭夢之助とともに大喜利メンバーとなった。

2022年の時点での大喜利メンバーの中では林家木久扇(1969年11月加入)に次ぐ古参である反面、2004年12月に林家たい平が代理メンバーとして加入するまでは、1歳年下の桂才賀がメンバーだった一時期(1980年11月2日-1988年3月27日)を除いて、最年少メンバーだった。

笑点ではインテリ、セレブ、腹黒、友達がいないキャラを担当した。
2019年4月以降はたい平と親友という設定ができ互いに「円楽っち」「たい平っち」と呼び合って、グータッチをするなど事あるごとに仲の良さをアピールし合っていた。
インテリネタでは大喜利での挨拶で楽太郎は時事問題などを取り上げることで長くなるため、隣のこん平から「私にはそういう難しいことはわからないんですが…」と言われるのが定番であった。
腹黒ネタでは2006年に春風亭昇太が加入してからたい平と3人で「ブラック団」を結成し、円楽主導で司会の歌丸に対し、3人で罵倒ネタを言い放った。そのため歌丸から3人の座布団を全部没収されることもあった。代理司会を務めた時は三遊亭小遊三を本名の「天野さん」と呼んだ。

かつてノベルティーグッズとして『腹黒時計』なるものを制作していたことがあり、時計の一部は弟子筋にも配布されている。

五代目が司会を務めていたころ、自身に対するダメ出しで番組が締めになるなど師匠から厳しく叱責されたため、降板を考えたことがある。しかし、当時の番組プロデューサーである本多益幸から説得を受け、思いとどまった。
自身が褒められたのは5代目が死去する2年ほど前であり、「おまえもようやく少しは“らしく”なったねぇ」と言われたという。

兄弟弟子である好楽が運営する寄席は『笑点』のネタで、「解体工事中」「客が来ない」などと多用していた。師匠・五代目圓楽に対しては、「師匠の作った寄席の若竹が潰れて借金まみれ」「若竹に客が来ない」「顔長の馬面(「馬頭観音」「馬の耳に念仏」など)」といった罵倒ネタを、歌丸やこん平とともに多用していた。また、メンバーが泥棒の親分で司会者がドジな子分の設定などでは立場が逆転したことを利用して「バカ」「間抜け」などの罵声を師匠に浴びせ続けたこともあった。メンバーの中では「他メンバーに毒を吐く」イメージがあるが、収録の際はパン等の差し入れを毎回している。

昇太が司会に就任してからは、司会の座を奪おうとするネタを多用するようになった。これはあくまでも番組としてのネタであり、本人は自ら司会をやることに対しては否定的な発言をしている。2018年4月1日のエイプリルフール企画と2021年5月9日の笑点55周年企画において、昇太と入れ替わる形で司会を2回担当したことがある。

五代目圓楽の司会就任以降、大喜利メンバーの先輩である歌丸とは四代目三遊亭小圓遊とのやり取りを彷彿とさせるような罵倒合戦を繰り広げており、歌丸司会当時は、政治批判や時事ネタを活かして座布団を獲得するも、主に「やるかジジイ!」などのジジイネタ、髪の毛にまつわるハゲネタ、臨終や葬式などの死亡ネタを用いて座布団が大量ないし全部没収されてしまうことがしばしばあった。歌丸が回答者時代には席が隣ということもあり、罵倒ネタに怒った歌丸が楽太郎を扇子で叩いたこともあった。番組内では犬猿の仲を演じていたが、若手時代にネタに困っていた楽太郎に歌丸が「俺のことでもいいから」とアドバイスしたのが罵倒合戦の始まりであり、円楽曰く「罵倒ネタを用いた際は収録後に謝るようにしている」とのこと。歌丸との仲は良く、二人会等番組外での共演も多くメキシコで一緒に海外公演を行うなど表向きにも多く見られ、この点は小圓遊と異なった。円楽が主催し、東西の落語家が協会の垣根を超えて出演する『落語まつり』にも歌丸は亡くなる前年の2017年まで毎年出演していた。六代目円楽襲名の際、先代が死去していたこともあって歌丸が後見人を引き受け、襲名披露を落語芸術協会の定席興行で実現させた。

2017年6月より、歌丸が会長を務める落語芸術協会に単身で客員として加入することになったが、その仲介役となったのが会長の歌丸と、同じく笑点メンバーで副会長の三遊亭小遊三であった。

長年に渡る関係から、円楽の歌丸へ対する尊敬の念は大きく、2015年10月には『桂歌丸師匠を人間国宝にする会』を立ち上げ、歌丸を落語界4人目の人間国宝にすべく署名運動を展開したこともあった。

2018年7月に歌丸が死去した際にはコメントで歌丸について、噺家としての父である師匠の五代目圓楽に次いで、自身を支えてくれた「最後の父親」と称し、歌丸への思いを綴った。歌丸との生前最後の対面となった同年6月20日の見舞いの際には、その様子を共に見舞った『笑点』の番組関係者がビデオ撮影しており、その映像が7月12日に日本テレビで生放送された歌丸の追悼特別番組で『歌丸生前最後の映像』として公開された。

歌丸の死後最初の放送となった7月8日の『笑点』は「歌丸追悼スペシャル」と題して歌丸を偲んでの追悼大喜利が行われ、この中で円楽は大喜利最後の回答で指名され、亡き歌丸に対して涙声になりながらも「ジジイ! 早過ぎるんだよ!」と叫び、長年の罵倒合戦を締め括った。
 

 

 

 

 

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